昭和四十三年六月四日 朝の御理解
信心を頂いて、いよいよ神恩報謝の生活ができるようになり、お道の信心を頂いて、そこのところが、いよいよ深く、広くなっていかないなら、お道の信心の値打ちはないと思う。
神恩報謝の生活。それは、そのまま、喜びの生活。喜びというのは、恩を感じるところに、言わば、おかげを感じるところに喜びがあるのですから、なあにもなしに只喜んでおると言う筈はありません。恩を感ずるから、そこにおのずと喜びが湧くのです。
お道の信心は、そこのところの御恩を、全ての恩というか、それを感ずる。そこへ報謝の生活、それに報いる生活。それも神恩を感じてそこに喜びがあるから報謝のそれに報いる生活ができるのでございます。しかも、その神恩報謝の生活が、いよいよ深く、いよいよ広く分からして頂き、感じさせて頂けれるおかげを頂いていくということがお道の信心なんです。
どうでしょうかね。信心をこうして、段々させて頂きよるが、本当にその、神恩を感じていきよるだろうか。全てのことに対する恩を感じて、その恩に報いる喜びの生活が少しづつでもできていきよよるだろうか。少しづつでもその喜びの深さ広さが大きくなっていきよるだろうか。何十年信心を頂いておりましても、そこのところがひと-つも育っていかない人があります。信心が育つというのはそういう神恩報謝の心というものが、いよいよ本当なものになっていき、その喜びがいよいよ本当なものになっていき、しかも、それが深く、広くなっていくことなんだ。
でなかったら、信心が育っていきよるとも、信心が分かっていきよると言う事も言えないのです。どうして、その神恩の報謝の生活、神恩の有難さが分からんのか。
信心の心得の中に、「神徳を受けよ。人徳を得よ」、次に「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」と二つの心得の中に、神徳を受けよとか、神徳を積みてと。この神徳という言葉がもうあらゆる所に出て参りますね。御教えに。神徳を受けよとあり、又は神徳を積みてと御座います。神徳を受けよ、人徳を得よ、生きたくば神徳を積みて長生きをせよ。この、例えばね。神徳を受けよ、人徳を得よということは神徳は受けていくもの。人徳は得ていくもの。ですから、神徳を受けていけば、人徳は得られる訳ですね。人徳はあっても神徳を頂いてない人が沢山ありますよね。あの人はなかなか徳者だと、人徳があっても、神徳を受けてない人が沢山ある。 だから、信心さして頂く者は、まず、この神徳を受けることに一生懸命ならなきゃばならん。 生きたくば神徳を積みて長生きをせよというのは、これはこの世での長生きということもありましょうけれども、この神徳を積みて長生きをせよということはね、これは、この世だけのことじゃないですよ。あの世への生きどうしの働きというか、まぁ、そこんところは別といたしましてね。今日は、その二つの信心の心得の中に神徳を受けよとか、神徳を積みてとこう仰る。神徳を積み上げて行くということね。
何故、私共が信心させて頂いておる。しかも、十年、二十年と信心を続けておるのに、神恩報謝の生活ができないのか。しかも、いよいよ深く、広くなっていかないのか。それは、神徳を積まないから、神徳を受けないから、であります。
ですから、どうでもやはり、簡単に神恩報謝と申しますけれども、本当にその神恩が本当に分かっていかないかんです。神恩が分からんところに、不平不足があるのです。不平不足を言うちゃならん、言うちゃならんというが、神恩が分かって来りゃ、言う事がなくなってくるし、どこを押せば不足が出るか。勿体のうして言われんです。ですから、結局、神徳を受け、神徳を積んでいくための信心が先になされなければいかんです。通り一辺の神恩報謝じゃいけない。
信心させて頂いて、いよいよ信心が成長するということは、いよいよその神恩に対し、いよいよ喜びの生活がいよいよ深く、広くできるということ、それが信心。 そこで、御理解を頂きますと、神徳を積みて、又は神徳を受けるということについて御理解を開いてみましょうね。御理解第六十四節、「此の方は参って尋ねる所がなかった」ね、「此の方は参って尋ねる所がなかった」。教祖様ご自身のことを言うておられるんですねえ。「氏子はおかげを受けて、遠路の所を参ってくるが」。皆さんはおかげを受けて遠路のところをこうして参ってお見えになられるが、「信心して徳を受けて、身凌ぎをするようになれ」と、書いてあります。
信心して、ここにも、徳を受けてと、こういうてあります。だから、信心して徳を受けるということ。それは言わば、此方は参って尋ねる所がなかったけれども、皆さんは日々こうして御神徳を受けさしてもらえれる、御神徳を積ましていただける道を教えてもろうておるということなんだ。おかげを頂く道を教えて頂いておる。
そのおかげというのは非常に意味が広いですけれども、ここではね。だから、お徳を受けていく道、信心して徳を受けてとこう仰る。やはり、なかなか分からんのです。自分では分からんのですけれども、そこにはちゃんと、お徳を受けて、こういう道を歩かせてもろうたら、こういう風に信心が分かって、徳を受けてきたという大先達である所の、言わば、教祖様。その教祖様が教えてくださったことを又、身に心に頂いて、やはり身に徳を受けて、例えば、久留米の初代の石橋先生とか、小倉の桂松平先生とかという、私共の身近な所に、お徳を受けられた先達の方達がです。おかげを受けておられます。
いわゆる、此方は尋ねる所がなかった。けれどもやはり、教祖様の御教えというものを、尋ねて、しかも又、求めて、神徳を受けていかれた訳なんです。
ですから、ここへ参って来るということは、教祖様がお徳を受けられた道をね、しかもね、これは誰しもが受けられる。教祖の神様という方。又は、桂松平先生、石橋松次郎先生、甘木の安武松太郎先生という、大徳を受けられた先生方がです、おかげを受けておられが、ああいう先生達は別だ。安武先生や、石橋先生あたりのような人は、そりゃ、千人も万人もの中に一人ぐらいしか無か人だ。確かにおかげを受けた人はそうなんだ。けども、本当言うたら、誰しもが受けられるんだ。
教祖様は、難しいことは仰っておられない。別に、石橋先生だからと言うて木の股からお生まれになったお方でもなければ、桂松平先生だからと言うて、国の王様のお子様でもなかったということ。平凡な、私どもと同じような、この世に生まれられたのは同じような平凡なお方であったということ。これがね、さぁ大臣か、大将かといったのには、なれませんよ。これは誰しもという訳にはいきません。第一勉強ができとらなきゃ、頭が良うなからなければ、なかなか大将大臣というのになれません。いわゆる、陸軍大将、海軍大将というたってなれません。偉い人のことを大将という。身は総理大臣と、何々大臣と言ったような、立身出世した人達は、これは違う。
けれどもね、信心でいう身に徳を受けていくというのは、頭が良いとか、悪いというものじゃ全然ない。本人がその気になれば、誰しもがおかげを受けられるというものなんです。特別生まれがようなからなければいかんということはない。神の氏子であればみんながおかげを受けられる、それを皆が受け物が悪いから、受け物を作ろうとしないから、受けられないだけのこと。そこのところを、一つ分からしてもらわなければいけません。
皆はおかげを受けて遠路のところを参ってくるが、信心して、徳を受けてと。ですから、お徳を頂かせて頂くためにはどういう信心か、お徳を積んでいくとはどういうことかということを、皆さんが、いつも心に掛けさして頂いて、積みあげていくという信心。
昨日、久留米から池内さんという方が、佐田さんのお導きで参って見えられた。その方は兄弟が八人おる。けれども、自分は久留米の方に縁について来て、他の七人は親の元におられる、まぁ、市内に居られるそうですけれども、親が病気をいたしておりますけれども、看護にいく訳にも行きませんし、なでたりさすったりしてやることもできません。それで、自分は、信心でもさしてもろうて、どうでも、親にもう一遍よくなってもらいたい、健康になってもらいたいという願いで、参ってこられる訳なんです。
そしたらね、その事のお届けをさして頂きよりましたら、御詠歌ですかね。一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のためという御詠歌があるでしょう。あのくだりのところを頂くのです。いわゆる、一つ積んでは、二つ積んではと。積んでいくということ。神徳を積むということは、神徳を受けるということと、神徳を積むということを、今日は信心の心得でそこんところを頂いた訳ですよね、皆さん。だから、神徳を積むということはね。一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、そういうような積重ねが成されることが、徳を積む事なんだ。
だから、一つ、二つと積んでいかにゃいかん。こうして、皆さんがお参りしておられます。これが例えば、今日も商売繁盛いたしますようにというてお参りしてきておられるならばです。これは積むことになりませんね。それは、商売繁盛のおかげは受けても積むことにはならないのです。
けれども、お参りが、ここに一つの難儀な人があるために、そのために修行をしとる。例えば、池内さんじゃないけども、親のために修行さして頂こうというのである。これはもう正しく積んでいくことになる。自分の病気をようなしていただく為にお参りする。これは自分の病気のおかげを頂いていきよりますから、これは積むことにはならない。
お店でいうなら、そこの店主がお客さんのために信心さしてもらうなら、もうお客さんのために一つ積んだことになるのです。従業員のためになお又信心がされるなら、従業員の為にもう二つ積んだことになるのです。
今度は反対の事を言うてみます。そこの従業員の人がです、その店が繁盛する事のために、一つ積んだら、給料貰いよるけん働きよる。これはもう、これで済んどる。給料もろうただけ働いた。いくら働いたっちゃそれだけのこと。けれども、本当にこの店が繁盛することの為に自分の思いというものがかけられる。そこには、その店のために一つ積んだ訳なのである。そこのご主人のために、この信心はという信心ができたら、主人のために二つ積んだ訳になるのである。信心して徳を積むということは、そういう積み方がある訳なのです。それが赤の他人の誰彼の為にでも、ここに毎日、そういう方たちが、たくさん、幾人か必ずあります。先方は誰もしっちゃありません。お取次ぎをしてもらっ取るやら誰も知っちゃありませんけども、その人のために、やはり自分でお初穂奉らしてもろうて、○○さんが、こうこうでございますから、どうぞ、難儀から助かられますようにといったようなお願いをなさる。
その人は、もうその人のために、一つ積んだ訳なのです。二日続いたら、二つ、三日続いたら、もうそこには、その人のために三つ積んだことになるのである。
信心して徳を受けてと、信心というのはね、そういう内容をもたなければならない。
神徳を受けよ。これは、いつも私が申しております。限り無く本気で改まらしてもらおう、本気で磨かして頂こう。教えによって本気で磨かして頂こう。これが受け物ができる訳なのです。改まらしてもらおう、磨かせてもらおう、ここに、受けていく。そういう清らかな受け物ができます。
そこに、受けていくという。所謂神徳を受けていく。受けていくためには、どうしても、一つ限り無く美しくなりましょうという願いを立てて、信心がなされていかなければなりません。そして、神徳を積んでいくということのためには美しいその心で、一つ積んでは父のためであり、二つ積んでは母のためであり、三つ積んでは四つ積んではと、例えば、ただ信心が自分の我情我欲を満たすことのためだけにいくら御用が出来ても、お参りが出来ても、これでは信心の徳は受けもされねば、また、積んでいくということもできないことが分かる。
教祖様の、このお道の教典を開かせて頂きますと、所謂、この神徳を頂くということばっかりを教えてくださってあるように思う。所謂、此の方は参って尋ねる所がなかったけれども、天地の親神様のおかげを受けられるようになってから、天地の親神様からいよいよご信用を頂けれる、本当のお徳を受けられる道をこうやって容易う説いて下さった。分からして下さることがおできになられる様になった。そこで、私共は、その道を体得しなけりゃ。その道を覚えていかなければならない。
そのところから、神徳を積んでいき、神徳を受けていくところにです。信心がだんだん、例えば、一年前より今年と、神徳を受け、神徳を積んできた一年前の私と、一年後の私というのは、神恩を感ずる内容が違ってくる。深さが変わってくる。広さが変わってくる。だんだん一人のことよりも二人のために、いうならば、大きくは天下国家のために言わば、一つ積んでは、二つ積んではという修行がなされていく。いよいよ信心が広うなって来る訳ですねえ。
そして今度は、一つ積んでは、二つ積んではというのがです。天下国家のためにいたしましてもです。もうそこにはね、いよいよ深さを増してくるというのは。
昨日、福岡で飛行機が墜落しましたですね。それが問題が問題を産んで、大変、新聞とか、テレビで騒いでおりましたですねえ。それが世界中には、至る所、さまざまな災難、難儀というものがあっておることでございましょう。
けれどもです。もうその位な事は本当に一部なんです。そんなら、世界中が戦争しとるという訳じゃないです。本当に悲惨な戦争が、どこかの国で続けられておる。けれども、平穏である。無事であるというところが多いのです。そのことのお礼を、心から申し上げれる人がなからなければならないと思う。
所謂、信心さして頂くものが分からして頂いて、そこのところのお礼の申し上げれる。そのために一つ積んではと、いうようなお礼ができる。みんなが、どうぞ世界真の平和をと、願うものはあるけれども、お礼を申してゆく者がない。またそのことに対してです、このようなおかげを受けているにも関わりませず、このようなお粗末、御無礼が、世界中に出来ていきよるというのをです、自分が詫びていくという人はいよいよ少ない。
そのところから、神徳を積んでいき、神徳を受けていくところにです。信心がだんだん、例えば、一年前より今年と、神徳を受け、神徳を積んできた一年前の私と、一年後の私というのは、神恩を感ずる内容が違ってくる。深さが変わってくる。広さが変わってくる。だんだん一人のことよりも二人のために、いうならば、大きくは天下国家のために言わば、自分が一つ積んでは、二つ積んではという様な修行がなされていく。いよいよ信心が広うなって来る訳ですねえ。
そして今度は、一つ積んでは、二つ積んではというのがです。天下国家の事に至りましてでも、もうそこにはね、いよいよ深さを増してくるというのは。
私は昨日、福岡で飛行機が墜落しましたですね。それが問題が問題を産んで、大変、新聞とか、テレビで騒いでおる様でしたねえ。二ュ-ス何かで見ますと。それがその、世界中には、至る所で、様々な災難、難儀というものがあっておることでございましょう。
けれどもです。もうその位な事は本当に一部なんです。そんなら、世界中が戦争しとるという訳じゃないです。本当に悲惨な戦争が、どこかの国で続けられておる。けれども、平穏である。無事であるというところが多いのです。そのことのお礼を、心から申し上げれる人がなからなければいけないと思う。
所謂、信心さして頂くものが分からして頂いて、そこのところのお礼の申し上げれる。その御礼のために一つ積んではと、いうようなお礼ができる。みんなが、どうぞ世界真の平和、世界総氏子身の上安全を、願うものはあるけれども、お礼を申してゆく者が少ない。またそのことに対してです、このようなおかげを受けているにも関わりませず、このようなお粗末、御無礼が、世界中に出来ていきよるというのをです、自分が詫びていくという人はいよいよ少ない。
私は昨日一日その事の、お詫びの事にかからして頂いた。そしたらね、そのお詫びの事にかからして頂いたら、昨日、私一日をです。有難い有難いというもので、支えて下さっているような感じであった。
それは、私が世界中のことを、言わば、お詫びさせて頂くような心持ちにならせて頂いたら、私の心に通うて来るものは只、有難い。そこには、一つ積んでは、二つ積んではと、只、口でお詫びするだけじゃ相済まん。
だから、これはお詫びの印にという修行がなされていくところに、いよいよそのお詫びによって信心の深さというものがず-っと出来てくる。御礼によって広さが出来てくる。と言うように、私共が、言うなれば、肉親の父のためにも、母のためにも、自分以外のもののために自分の信心が、段々有難く行じさせていくようになって参りますということが、信心がいよいよ成長していきよることなんだ。 これが自分一身一家のことのために信心が続けられておったんでは、何時迄経っても、神徳を受けることも、神徳を積んでいく事も出来ません。
信心して身凌ぎをするようになれと仰る、身凌ぎなんかということはもう及びもつかない。その、自分の信心がです。段々成長のおかげを頂いて、一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のためというように、この信心修行が積まれていくというところに、神徳を積んでいく。
生きたくば神徳を積みて長生きをせよという、あの世にも持っていけ、この世にも残しておけれる、本当の道の、人間の魂そのものもですけれども、徳そのものが生きておる。その人が受けておる魂に受けた徳が生きておる。これが生き通しなのである。生きて働くことができるのである。
魂は不滅である。お互いの魂は不滅であるけれども、それが働きの出来ない魂だったら、もう死どるのと同じでしょうが、その魂が光を受けて、光を放つところの魂になっとかなければ、所謂徳を受けとかなければ、徳を積んでおかなければ、その魂は、本当の意味での生きて活動ができないのである。只、生きとるだけで寝糞、寝腫りになっとるだけじゃいかんでしょうが、生きて働きができなければ、、、、。
まあ、高遠なことをいうと、そういうようなことになってくる。高い、遠い、そういうところにまで、自分の思いが至ってくる。
神徳を受ける、神徳を積む。積んでいく術というか、受けていくためには、こうあれよ、積んでいくためにはこうあれよ、と教祖の神様は身をもって、それを教えて下さった。それを私どもの先達、先輩といわれる徳を受けられた先生方は、成程、誰でもおかげを受けられるということを実証しておられる。
そこで、私共もです。そういう身に徳を受け、徳を積まして頂いて、そして、それを実証していく。 昨日、お金に不自由しない御理解を皆さん頂かれましたですね。昨日、経理をしとる久保山さんが銀行に持っていかれる袋にこういう字が書いちゃる。「恵松真実之利」これは、お金に不自由しない、呪い札のようなもんだと私がいうのですね。
だから、これを書いてから、皆一枚づつ配ってから、これさえ財布の中に入れとくなら、絶対お金に不自由することはないというような、そりゃ、呪い札のようなものと言うて私が、何人かにですね、あげておるんですよ。これば財布の中に入れとかんのち、あんたげの金庫の中にこれば貼っときなさい。絶対お金に不自由することはなかばいち、言うとる。
そして、この意味を私が言うてやる訳なんです。勿論これは、貼っとるだけじゃいかん。この意味がようと分からなければ呪いにはならん。と言うことをまぁいった。
それで昨日、お金をもっていくときに、「先生私は一遍お伺いしたいお伺いしたいと思よりましたが」と言うから、「何ですか」というたら、「この袋に書いてあるこれは、先生どういう意味でしょうか」と言うてから、久保山さんが尋ねますもん。「あんた意味は知らじゃったの」それはこういう意味と言うてわたしが。
ここでね。限りなしに私がおかげを、例えば金銭なら金銭のおかげを受けておるというのはね、これは私の信心、私の力じゃなか。もうすべてがね、ここのお恵みというのは、この真実松のお恵みによるものである。そのことを思い込ませて頂いたらね、お金に不自由することはない。
桂先生が九州に出られる時に、四神様が、この福神を九州の地にお供して行けと仰った。三井教会の荒巻先生が布教に出られる時に、御神夢を頂いておられる御神夢の中にも、「この福神をお伴をしていくならば家に宝の尽きることない」という歌をいただかれた。
とにかく福神。昨日は、金乃神ということについて頂いたですね。福神なんだ。それを結局、どのように信心ができましても、どのような徳を受けていく、徳を積んでいくといいましてもですね。結局、教祖の神様の御信心によって、お取次によって、私でいうなら、この松のおかげ。
ここで、頂いておるおかげは、もう私の取次なんかというもんじゃない。これを、空しゅうしてしまっておる。そして、すべてが松のおかげによるものであると、真実分からして頂いたら、そこから、本当の利というのは得られるのだ。しかも、それは限りなくである。
お互いの財布の中に入っておる、金庫の中に入っておるお金がです。又は、日々入ってくるお金がです。所謂神様のおかげで入って来ておるんだ。いうなら、神様の御物であると分からせて頂いたら、そこからです。神様の御物を、自分の自由な、身贅沢のためにどん使うようなこつがあっちゃあ相済まんというものが、その内容にできてくるから、神様は限り無く、無尽蔵にお恵み下さるんだ。と言うて、昨日、説明したことで御座いますけれどもね。
「あぁ、本に私は、今朝の御理解にはね」、昨日の言葉でですね。昨日、本当に私は金乃神と言う事について、いろいろ話をしたが、もう、最後の、こういう精神にならせて頂くところに、今日の金乃神のご理解の真意があったという答えを、皆さんに聞いてもらっていなかった様に思うですね。と言うてから、説明したことで御座いますけどね。
こういうような、例えば、考え方、自分をいよいよ空しゅうしていくところからの考え方、自分というものはない。あるものは神様のおかげだけだという、いよいよ神恩報謝の生活が出来ないはずがないでしょうが。
自分というものがある間は、私が働いておるというそれだけ神恩報謝の思いは少ない。神様に手伝うてもらうだけのことしかない。
もう、全てが、あなたのおかげでと言うことになってくる。そこに、いよいよ深い神恩報謝の生活、神恩を感ずるところに、喜びが湧く。その喜びが、言うならば報謝の生活になっていく。
お道の信心は、どこまでも、その神恩報謝の生活がです。いよいよ深い、広いものになっていくために、お互いいよいよ神徳を受けて、また、神徳を積んでいくことに、焦点をおいての信心にならなければならないということが分かります。どうぞ。